生きててごめんなさいと心から思った日

御堂筋線ホーム。時刻は既に0時を回り、皆足早に、しかしどこか気だるげに改札への階段をのぼっていった。私はトイレに行きたかった。漏れそうだった。このまま私鉄に乗り換えたところでどこかで死んでしまうと思った。しかしトイレに寄ると終電を逃してしまう可能性が高くなる。トイレは最寄り駅に着いてから行けばいい。そう自分に言い聞かせて私は京阪線の改札を通り抜けた。

次の記憶は駅員さんに肩を叩かれるところから始まる。おや、着いてしまったのか。はて、私の最寄は終点になるような場所ではないぞ。ああ、数駅手前の車庫がある駅に着いたのだな。おやおや、私としたことが、行き先を見てなかった。そう思いつつ電車を降りると寝ぼけているのか酔っているのか思ったよりも足取りがしっかりしなかった。次の電車あるかな、それともこれは終電なのかな、そう考えて電光掲示板を探したが目に入る前に「改札はあっちですよ」と駅員さんに声を掛けられた。ああやっぱり終電だったのか。最寄目前にしてなんと情けないことだろう。私の他にも数人今起きましたというような風情の人がふらふらと階段を降りていた。階段を下りながら、少し記憶の中の駅と違うような雰囲気を感じつつも私の中には他の駅にいるという可能性がまるでなかった。改札の前に並ぶタクシーの運転手を見ながら改札を通り抜けた。ここから帰ればツーメーターくらいで終わるのだろうか。それとも歩いて帰ろうか。

考えたのは一瞬だった。考えるまでもなく、私はひょろりとした初老の運転手に半ば強引にタクシーに押し込められていた。おやおや強引ですねえ、何故か頭の中では杉下右京ボイスが流れていた。タクシーで帰ります、萱島駅から。と母にラインをした。すぐに既読がついて、萱島?もう1時やのに?と返ってきた。そこで私はやっと今の時間を確認することになる。深夜1時になろうかとしているような時間だった。私は静かに目を閉じた。大阪方面から最寄りに向かって電車に乗って、例え終電に乗ったとしてもこのような時間に萱島に降り立つ事は有り得ない、そう、絶対に有り得ない────。私はやはり静かに目を開け、窓の外を流れる景色に目をやった。知らない住宅街だった。もしも私が思っている駅に居たとしたら今は確実に知っている街並みの中を走るはずなのだ。初老の運転手がなにか話す声を遠くに聞きながら私は地図アプリを立ち上げた。もう現実は分かりきっているのに私は何かに祈りながら現在地が表示されるのを待った。

京都に居る。その事実は到底受け入れ難いものだった。運転手と今まで成立していた会話はなんだったのか。この局面でまさかアンジャッシュのコントよろしくこんなに会話がすれ違うことがあるだろうか。初めて私の動揺に気付いた初老の運転手は「ここ京都やで」と言った。もっと早く言えよ!?いや言わないか、言うわけがない、自分がどこに居るのか分からない人なんてそういない。海岸に倒れているピアニストくらいしかそんなセリフは許されない。どうせなら私も記憶を失いたかった。終電を迎えたホームで記憶を失うヲタク。美しさもない、そこにあるのは醜さだけである。

「でっ、、ですよねえ!?!?!!」若手芸人のように声を張ってしまったのは無意識だった。私の中を駆け巡る動揺が私のコミュニケーション能力を爆上げした。「えっ!?淀?!?!私ずっと、ずっと萱島やと思ってました!!」「だーからか!道理で反応薄いなあと思っとってん、見た?見てくれた?GPS見てくれた?おっちゃん嘘ついてへんやろ!?」最後には2人で爆笑した。暫く笑っていたけれどいつしか車内は沈黙に包まれた。私の頭の中ではすごい勢いで状況整理が行われていた。ここは京都、最寄りまでおそらく一時間程度は掛かるだろう。死ぬほど食って死ぬほど飲んだあとだ、財布の中はすでに瀕死の重態。お金が無い。まずい。足りなかったらどうしよう。警察に突き出されてしまう!まだ少し寝ぼけていてかつ普通に酔っ払っていた私はすっかりびびってしまった。「と、ところでここからどれくらいかかりますかね、あの、お金的に…」そう聞いた声は恐ろしく上ずっていて初老の運転手は少しだけ笑った。

「あんた学校の先生でもやってるのかね」
しばらくして初老の運転手はそう言った。私は思う。火曜の夜、もはや水曜の未明である。そんな時間に終電を逃し京都から大阪にタクシーで帰ってる教師になど何も教わりたくないと。「やってませんよ、もっとちゃらんぽらんに生きてますよ」ちゃらんぽらん、というワードを使ったら頭の中にスーパーマンが流れた。あかんから、酒が足らんなんてったって。さやかさんのパートである。あまりに耳が痛くて舌を噛み切りそうになったがすんでのところで耐えることが出来た。

「淀屋橋から乗って、出町柳まで行って、折り返して淀で止まったんやろなあ。あいつら出町柳では起こしよらんねん。いつもそうやねん。」運転手はずっと話し続けていた。あまりに落ち込む私を気遣ったのか、私の相槌が上手過ぎたのかは分からない。「人生は勉強やでえ、そんな落ち込みな。今回はまあ、お金が掛かったけど、もうお姉ちゃんはこんな失敗せえへんで?な。せめて淀で良かったがな、出町柳やったらほんまに目もあてられへんがな!」情けなさは相変わらず私の中に溢れていたがとりあえず上がったままのコミュニケーション能力を最大限に使って聞いてみた。「結構普段からこういう人いるんですか」「おるおる、毎日や」「そうなんですか」「お姉ちゃんなんか近い方やで、おっちゃんな堺とかの向こうまで行ったことあるんやから」「えっ!それは高くつきますね」「なあ、ほんまになあ、京都からやからなあ。」さすがにソイツばかだな。窓の外を見つめたまま少しだけ口元が緩んだ。でもすぐに自分も同じ穴の狢だと気付いて落ち込んだ。運転手が「人生は勉強やでえ」とまた言った。

家に着いたのはちょうど2時になろうかとしている頃だった。母親が起きて待っていた。怒られるだろうと思って真っ青になりながら帰ったのに母親の第一声は「大変やったなあ、お疲れ」だった。怒られるかと思った、と言う私に「お酒を飲んでれば誰しも一度くらいすることやからな」と言うので「ママも京都とかで起きたことある?」と聞いたら「ないけど」と言われひどく裏切られたような気分になった。着替えもしないでとりあえず布団に倒れ込んだ。帰ってきた。駅で起こされた時は死ぬほど眠かったのにもう眠気は消え去っていた。そりゃそうである。1時間もぐっすり眠ったのである。何の音も振動も感じないほどに。傍らに放り出したままだったカバンに手を伸ばして財布を引っ張り出した。やっぱりお金はなくなっていた。ワンチャン夢だったらいいのに、という私の期待、砕かれるの826回目。


布団で少しホッとしていたら不意にトイレに行きたくなって飛び起きた。そういえば私はトイレに行きたかったのだ。御堂筋線の構内でトイレに行けば良かったのだ。そうすれば本当の終電に乗るようなことになっていて、どうしたって京都までは行けないはずだったのだ。せめて萱島で止まれたはずだったのだ。危険を冒さない性格があだとなり、ひどく遠いトイレになってしまった。起き上がりトイレに向かう。時刻は2時半。


朝起きて、まず思ったのはあれは現実だったのだろうか?ということだ。淀の駅を歩いていた時の現実じゃない感は異常だった。思えばあれは、夢の中でよく感じるものだ。もしかしたら夢だったのかもしれない。枕元に置かれたままの財布を開いて淡い期待は砕かれる。827回目の出来事だった。