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数の子と私

日記

いつだって数の子が食べたい。わたしは元々数の子が嫌いだった。まず海で生まれ海に生きるものがあまり好きじゃなかった。川もそうだった。海藻とホッケは許した。でも魚卵は論外中の論外だった。世の女性って明太子好きでしょ?ほらほら明太子パスタだよ?みたいな風潮に辟易する毎日だった(これに関してはチーズやスイーツも該当します)。しかし母は数の子が好きだった。兄も数の子が好きだった。母は魚卵が好きな女だったし兄は魚卵が好きな男だった。我が家における数の子は母と兄のためにだけ存在していた。そうしてわたしは育ってきたのである。毎年毎年大晦日から塩抜きのためにボウルの中で泳ぐ数の子を見ていた。見ているわたしに母は「騙されたと思って食べてみ」とお決まりの台詞を言った。わたしは頑なに拒否していた。しかしある年、ここ2,3年の話だけれども、ある年のわたしは「食べてみようかな」という気になった。その正月ついにわたしの前に数の子が並んだ。ビールを飲むようになって初めての正月だった。
生臭かった。なんともいえない生臭さだと思った。いやいえる。生臭い。数の子の生臭さがビールによって妙に際立てられているような気がした。魚を食べずに生きてきたわたしにとってその生臭さはあまりに新鮮だった。あれからわたしは数の子を食べるようになった。母は「食べさせへんかったらよかった」と未だに言う。騙されたと思って食べた結果このような言われ方をするのは本当に納得がいかない。しかしわたしが食べるようになってから数の子の消費量は上がったわけでそれは新年早々(買うのは年末ですけども)の出費を増やしてしまっているわけで、母が小言の一つや二つ言いたくなるのも分かる。分かる分かる。割と分かる。数の子は12月に入るか入らないかくらいのところから鮮魚売り場で妙な存在感をアピールし始める。12月も中旬に入ればそこは数の子オンステージ。数の子と蟹の一騎打ち。たまにフグ。スーパーに行けば目に入る輝かしい金色、美しい数の子、わたしは12月初旬にしてあいつの魅力引力誘惑に曝される。2016年わたしは早々に負けた。12月になって間もない頃わたしは数の子を買った。塩抜きをするためにボウルに水を張り数の子を浮かばせる。わたしは早速数の子をちぎって食べてみる。しぬほど塩辛くそれがたまらない。塩抜きしてない数の子を思う存分食べたい、翌日くらいに腎臓が干上がって死ぬような気がしている。わたしは塩分が原因でいつかそこそこの病気にかかると確信しているほどの塩狂いなので塩抜きは本当にそこそこでいい。夜中喉の渇きで目が覚めようが醤油をかけずとも食べられる程度の、醤油をかけずして塩かれえな!と思う程度の塩抜きで良いのだ。が。母は普通の人なのでちゃんと塩抜きをする。だからわたしは、塩抜きが終わるまでの間にほぼほぼ一本分くらいはつまみ食いをする。つまみ食いしたさに折った数の子も一本丸ごと食べてしまえば完全犯罪なのである。12月初旬に数の子を食べ、今中旬。わたしはやっぱり数の子が食べたい。しぬほど食べたい。数の子を食べたあとにビール飲んでくう~なまぐせえ!と思いたい。ひねくれた愛情はわたしが人間に向けるそれと似ている。数の子を買うお金がない。